昭和五十七年五月二日 朝の御理解


御理解第九十二節
神は一体じゃによって、この方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。


 おかげを受けなければならんからお参りをしておる、信心をしておるという信心から、信心が好きになるということ。そこには参らずにはおられない、修行せずにはおられない。教えを守ることはもう、こよない喜びである、楽しみである。というようにならなければ本当の、いわゆるなんと申しましょうかね、神様が喜んで下さってのおかげということにならないです。
 やはり御比礼の輝くという、例えば成る程天地金乃神様は、御一体であり、金光大神のま、お手代わりとして、あの先生方が各教会をま、守っておいでられるわけですけれども、御比礼の立つところ、立たないところというのは、守り守りの力と仰せられるが、守り守りの力というのは、私は神様にかける情念だと思うですね。
 いわゆる信心が好きな先生のところでは必ず助かりますよ、人が。あ、金光様の先生ちは、もう本当にまるっきり監獄にいっとるごたる、いわゆる外にも出られんし、畳半畳に座っとかなん。本当にまあ、仕事じゃけん仕方がないけれども、といったような、まあ事もなかろうけれども、そういう感じの先生のところではね、どうでもこの頃から聞かせて頂いたんですけれども、お道の教師にもやはり、休日がなからにゃいけないといったような事を、まいわれたという先生のお話を聞いたんですけれどもね、成る程、私共、盆もなからにゃ、正月もないのですけれどもね、それが、それが有り難いんだと。
 神様に向けるひとつの情念というものは、ま、それっこそ、おはら節の文句じゃないですけれどもね、「雨の降る日はおじゃるなというのに、ぬれておじゃればなおかわいい」とそういうなお可愛いというのは、もう特別の情念が神様の上に現れてくるわけですね。
 その信者、又は先生のうえに、そういうその情念がね、そのまま力にもなりおかげにもなるということ、神様の事になったらね、もう本当に夢中になる、なれるような信心ね。雨が降るから風が吹くからなこっちゃなか、もうそれこそね、やはり、通わずにおられない。そういう時に、ま、こげな雨の降る日に、もう、出てこんでもいいのにといいならがやっぱり、なお可愛いという情が神様の。
 だから、神様の思いをおこさせる働きというか、信心という、それがやっぱ、信心の好きな人、お徳を受けていく人、人が助かるという程しの人は必ずそういう情念が強い。
 信心が好きです。信心を致しております。勿論、信心が好きということは、修行が尊い、有り難いということになってくるものになってこなければなりませんがね。だから、神様のいうならば、情念を、こうかき立てるような生き方、かき立てるような信心がいるんですね。
 ま、今日の御理解とは少し違うかもしれませんけれども、守り守りの力でといわれる。私はその守り守りの力というのは、神様にかける憧念心といったようなものが、非常に強いところほど、やはり、神様が今のその情念を起こりなさいますからね、その情と情とが、いわゆる交流し合うて生みなされてくるのが、教会の御比礼になってくるんです。
 ですからこれは御信者さんの皆さんの場合だってもやはり、理屈は同じです。もこげんあなた遠かところば参ってきなさらんでも、電話でいいですよと、ここは御結界がありますから。昨日は北九州からしげしげと参って見えるご婦人があります。昨日は立派な息子さん達を三人連れて参っとられました。朝の御祈念にね。
 そいでそれぞれの願いが・・・もうお母さんが願っておられるからお電話でもいいですよというたら、いいえ一辺この人達に親先生のお話を聞かせたい、その一念でまあ、一緒にま、連れて参って来られたと。もう息子さんと云うても、もう五十近くの方達ばっかりでしたけれどね、三人一様な息子さんばかりをね、その親の情念が子供に写る。それにほだされるようにして、お参りしてくる。そしてなら、ここで直に頂く御理解が成る程有り難い、成る程母親が合楽合楽というはずだというような、事から子が孫が信心を頂くようになる。やっぱその情念ですね。
 いうなら、神様の心をかき立てるようなね、ま、それこそそんなにね、ま、私共の若先生が学院で修行中の時分に、手紙をよこしておりますがね、もう大体、学院から夜な夜な奥城に参拝するというような事はゆるされないわけですけれけれども、その法を破ってでも、夜中に、その、教祖様の奥城に御祈念をさしてもらうも、それが楽しい。只今教祖の神様と恋愛中だといったような手紙をよこしておりました。その恋愛の心にも似たような情念がね、もうこわさもなければね、しるしさもない。ただ逢いたいの一念ね。信心にはそういうものがいるんですね。
 もうよいといわれたから、ま、電話ででもよいといわれたから、電話でそりゃそれででもいいです。けれどもね、やはりお参りせずにはおられない。そこからいうなら、はあもこげん遠かところから参って来なさらんでもよいのに、電話でいいですよといいならがも、参ってくれば有り難い。やっぱここへ参ってこなければ親先生の顔も見られん、直のお話も頂かれんというところから、情が熱うなってくるわけですね。
 そこに私と皆さんとの交流が生まれてくる。私が天地と交流しておるなら、なら、皆さんの上にもその交流がなされる。同じ事になってくるじゃないでしょうか。私が天地との交流しておるなら、なら皆さんの上にも、その交流がなされる。同じ事になってくる、じゃないでしょうか。
 昨日は私の一番したの栄四郎の子供が、あれは三十三日、日晴れというですかね。それこそあの改まって御礼に出て参りました。昨日、まあ目録というですか、いっぱい。今度の子供が出来たお祝いを御信者さんから、もうそれもびっくりするように沢山頂いとりました。それをあのそのまま、御礼のお届けにお供えをさしてもらいました。
 まあいうならばね、そげんみんなお供えせんでんよかとこれと、いうところですけれども、これは取り次がせて頂く私としては、その心根が嬉しい。そいでなら、御祈念が終わって御理解にね、あの、この子は、もう親が御礼さえ申しとけばおかげぞ、と名前も「れい」というんです。だから、このこの場合は、もう御礼さえ申しときゃ、この子はおかげ頂くぞと、まあ両親の者に申しました事でしたけれどもです、ね。
 そげんも、頂いたもんば全部そのまま、そっくりお供えせんでんね、その中から御礼のお届けさしてもらえばいいのに、と例えばま、いいもしませんけれども、いったに致しましてもですね。止むに止れん、やっぱりそれをお供えせずにはおれない。そういうところからです、私はま、親が喜ぶというでしょうかね。それこそ雨の降る日はおじゃるなと云うに、濡れておじゃればなお可愛いという情念が、云うなら神様の心をかき立ててくるね。そこに私は段々信心が好きにね、神様の思いに、云うなら、よせられるというか、神様の情を感じるというかね、そこから信心が段々好きになってくる。
 私はお徳を受けるという人は必ず信心が好きなんだと思うですね。おかげ頂かんならんけん、このしるしかつにでも、参りよりとだと云う間はね、おかげは受けてもです、特別のなら、神様がね、夢にも思わんといったようなおかげにはなってこないと思うです。ね。ですから初めから誰でも好きなということはない。けども中にはやっぱ、好きなのがおります。
 私なんかは、もう本当に子供の時から好きでした。もう拝む事が好きで好きでたまりませんでした。ですから、たまには、そげんとがありますけどね。やはり、皆難儀な問題があって、おかげを頂いてね、そのおかげを受けるからやはり、お参りをしてるうちに、段々教えを本気で行ずるようになり、教えの有り難さが分かってくるようになり、神様への思いもつのってくる。
 そこに云うならば、神様はその本当の云うならば、交流が生まれてきて、うみなされるところのおかげということにもなるのです。
 今日はいわゆる、取次者の力ね、守り守りの力によって比礼が違うといわれるのはね、必ず御比礼の輝くところの教会の先生は必ず、情念の人です。信心が好きな人ですね。も、御結界に座っとるのが、一番有り難かというような先生のところです、助かるのはね。
 だからこれは、なら教師だけの事ではありません。御信心を頂く皆さんの場合もです、神様へかける情念が段々つのってくる。そこには、なら、こわさもなからなければ、しるしさもないと云うようなね、心の状態が生まれて来て、初めて神様との云うならば、交流とは、こう云うことであろうかと思われるような、云うならば信心の喜びとね、楽しみが生まれてくるんです。
 そこから、頂けれる、いわゆる神様の思いを異常なまでにこう、かき立てるような、ね、信心をしたい。工夫が入るね。神様は、まあ片思いにさせるような事は決してないね、信心が好きになる手だてね。
 為には、いよいよ、云うなら、合楽理念の実験実証をね、云うなら、それは神様のそのままをお心なのですから。お心を行じて抜かせて頂くのですから、神様の心が動かないはずがないね。
 神様の云うならば、心をいやが上にもかき立てれるような信心ね、そこからね、ま、本当の信者の喜びと云うことになり、それこそ信心の驚きと喜びに浸っての信心生活が出来るようになると思うですね。           どうぞ